児童虐待

小説


 取調室はとても簡素なものだった。六畳ほどの室内には窓がひとつあり、奥には袖引き出しのついた机が端にぴっちりと置かれている。部屋の中央には天板に脚を付けただけの机があり、向かい合う形でパイプ椅子が置かれていた。
 少年が部屋へ通されたとき、中央の机の手前側に年配の警察官が座っていた。彼は少年に軽い会釈をすると、向かいのパイプ椅子へ座るように少年を促した。そして、少年を連れてきた若い警官が奥の机に座るのを待ってから「佐々木くん、はじめるけどいいかな?」と問いかけ、佐々木と呼ばれた警官の返事を確認すると少年にこう話しかけた。
「こんにちは、菅田といいます。まあ、初めに言っておくと、これは事情聴取というもので被害者に…この場合は君になるんだけど、その被害者に私たちが調査している事件について知っていることを話してもらったり、家族や友人関係なんかを聞いたりするのね。で、君には黙秘権があります。ただねぇ、私たちとしては君が知っていることを素直に話してもらって調査を円滑に進めたいなと思うわけ。変に隠したりすると君の立場も悪くなるかもしれないから、その辺はよろしく」
 少年は頷く。
「はい、で、学校のほうから聞いた感じ、まあ、ありがちな話で親から虐待を受けていたということかな?」
「僕はそう思っていません。今日ここへ来たのもその誤解を正したいと考えてのことです」
 菅田は苦笑いを浮かべる。
「はいはい、まあ本人に自覚がない場合も多いしね。そのへんはうちらで判断しますよ。実際にはおたくの学校から連絡があってね。いま君が言ったみたいに、本人が認めないもんだから困っているらしいんですわ。それで、うちらに話を聴いてやってほしいと言ってきたわけ。なんで、君は聞かれたことに答えていればいいよ」
 少年は力なく「はい」と言った。
「ああ、受験については心配しないで。君、高校三年でしょ? その辺りは学校の人も心配してたけどねぇ。まあ、そんなこと言われてもね、こっちも仕事だから。話を聴いてみないと分からないけど、そんな大事にならんでしょう。うちらはやることやるから、あとは学校と君のご家族で話してください。佐々木くん、エアコンもっと下げてもらえる?」
 佐々木はドア横に張り付いていたリモコンを操作し、室温を26℃に設定した。
「はい、ではね。学校から聞いているところによると、君は小学生の頃から知らない土地に何度も置き去りにされていたんだってね。これはほんと?」
「その通りです。僕は10歳のころから土曜日になると朝食を食べた後に車で知らない場所へ連れていかれました。そのときは両親も一緒で、僕にリュックを渡して自宅へ帰ってくるようにいいました」
「ん? 両親は君に自宅へ帰るように言ったの? んー、ちなみにリュックには何が入っていたのかな」
「昼飯と水筒、千円の入った財布、あとタオルです。はじめは近くの…僕の知らない駅の周辺が多かったと思います。子供の足でもどうにか歩いて帰れる距離です」
 菅田は大きなため息をついた。
「それで、君は毎週土曜日に知らない場所に連れていかれて歩いて自宅へ帰っていたと」
「いえ、はじめのうちは帰ることができませんでした。僕は土地勘のない場所でどうしたら自宅へ帰ることができるのかわからなかったので、なにもできずに泣いていました」
「じゃあ、いったいどうやって帰ったの?」
「夕暮れ時になると、どこからか母が車で迎えに来てくれました。僕は家に帰ると父と話をしました。一人で置いていかれて不安だったと伝えましたが、父はその不安の原因をさらに細分化して深く説明するように要求しました。僕はそれがうまくできませんでした。ですが、次第に不安の原因がわかるようになってきました。それは家に帰れるかどうかわからないという不確かな未来であったり、周囲の人へ話しかけることの恐怖といったものです。父は僕の説明を聞くと、その不安は自分で行動することでしか解消できないと言いました」
 菅田は父親の言葉にたいそう憤慨した様子で、
「なんてことだ! 自分が子供を置き去りにしたくせに、その言いぐさはないだろう」
「僕はどうしたら家に帰れるのか考えるようになりました。自宅の住所を記憶して、地図の読み方を覚えました。それが必要だと思ったからです。地名が読めるように漢字を調べるようになったし、行き交う人に道を尋ねたり、大抵の交差点に名前がついていることにも気づきました。現在地がどうしても分からないときはコンビニへ入り尋ねると、店員は売り物の地図を持ってきて親切に教えてくれました。僕は自分の地図がほしくなったので、毎回財布に入っていたお金を貯めて地図を買いました。これは今でも大事にしています」
「財布の金が余った時は、お小遣いにしていた?」
「はい、それ以外に両親からお金をもらったことはありません。はじめのころは飲み物を買うくらいだったので、あまり考えなくてもそれなりにお金は余りました」
「はじめのころは?」
 少年は菅田から目を離さずに頷く。
「さきほど説明したことができるようになると、僕はさらに遠くへ連れていかれるようになりました。それが小学6年の夏休みに入った頃からで、駅2つか3つ分くらいの場所です。それまでは早ければ午前中に自宅へ帰れていたのですが、自分の足では難しくなりました。それにとても疲れてしまうので、土曜日と日曜日に友人と遊ぶことができなくなりました」
「ほら、やっぱり虐待だ。それ見たことか」
「だから僕は公共機関のサービスを利用することを考えました。距離が離れるにつれ財布の中身も増えていたので、上手にやり繰りすれば十分な金額です。僕は電車とバスの線路図を覚えるようになり、それぞれ運賃がどの程度なのかを調べました。用事がある場合は自宅へ帰らなければならない時刻から逆算して、どの交通機関を利用すればよいのか割り出すようにしました。そのような公共のサービスを利用するにはお金がかかりますが、そのかわりに時間を節約することができると知りました。また、他人の力を頼ることで目的の達成が容易になることを学びました」
「他人の力というのは、この場合でいえばバスとか電車のことかね?」
「その通りです。他人の力を借りるには対価が必要ですが、これを利用することで自分の生活が豊かになることを知ったんです。ですが、僕のお小遣いは渡された財布の中身だけだったので、無駄遣いをすることはできませんでした。お金を節約するために自分で歩けるときは歩くと決めていました。少しおかしな話しかも知れませんが、僕はこの財布が自分の給料であると考えるようになっていたのだと思います。それは無償でもらえるものではなく、自分で計算して管理することで増やすことも減らすこともできるのです」
「まあ、そうなのかね。私らみたいな公務員には分からん話ですな。なんせ私らは決まった時間に決まったことをすれば決まった給料がもらえるからね。いや、まあ、これは君に話すようなことじゃないか」
「中学にはいると部活や塾もあり、この行為を毎週行うことが難しくなりました。そのため、僕と父は相談して、今後は月に1度か2度おこなうようにしました」
「ん、君は父親と相談できるような間柄なの?」
「はい、父だけでなく両親は僕の話をよく聞いてくれます。この行為の後にも、今日はどんなことがあったのかを両親に話したり、それに対してアドバイスをもらうこともありました。それ以外の場合でも、僕の意見を批判したことは今まで一度もありませんでした」
「一度も?」
「僕も、その、親に対して反発していた時期がありましたが、両親は僕の話を聞いた後に必ず何が問題なのかを確認しようとします。そして、僕に”自分が抱えている問題を解決するため”の話し合いをするように促します。当時の僕は苛立ちに任せて話し出してしまうことがあり、きっと問題の解決ではなく相手を非難するために話していたのだと思います。しかし、そのような姿勢で話しても僕の言葉が両親に届くことはありませんでした。両親は、僕が何に対して問題を抱えているのかを見定め、的確なアドバイスをしてくれていました。それを素直に受け取れなかった時期もありました。思い返してみると、きっと僕は自分自身の不満に向き合うことを避けていたんです。それではなにも解決するはずがありません。両親はそのことを気づかせてくれました」
「んー、きみ、はじめに言っていたけど両親に理不尽なことをされていると感じたことはないの?」
「小学生と中学生のころ、理不尽に感じたことがあります。これが普通でないことも理解しています。周りの子供は楽しく遊んでいるのに、どうして自分だけ知らない土地へ連れていかれ自宅へ帰るために頭を悩ませなければいけないのか、と。ですが、理不尽はどこにでもあるのではないでしょうか? 僕はこの理不尽に耐えることで、そのほかで起こる理不尽に対して耐性がついたのだと思います。僕が重要だと思うのは、理不尽に晒されたときに自分を見失わないことです。そして、理不尽に慣れたからこそ、両親が行っていることは理不尽ではないと理解することができました」
「はいはい、まあね、よくある感じかな。DVを行う人はさ、虐待を与えたあとに優しくするんだよね。これはマインドコントロールの手段なんだけどさ。君は気づいていないかもね」
「それで、中学の時は自宅へ帰るためにどうしていたんだい?」
 と、先ほどまで奥の机で記録を付けていた佐々木がはじめて口を開いた。それを聞いた菅田は渋面をつくり佐々木を諫めた。
「佐々木くん」
「すみません。ですが、興味がありまして」
 佐々木は柔らかな表情で少年と視線を交わせ、話の続きを促した。
「中学になると小学生のときに比べ、友人と遊ぶときに使うお金が増えました。この頃になると服や靴など身の回りの物は自分で買うようなっていたので、お金を節約する必要があったんです。一番簡単な方法は電車やバスを使わずに自分の足で帰ることですが、時間がかかるし体力も必要になります。なので、数キロ走っても疲れないだけの体力をつけようと考えました。僕は陸上部へ入り体の使い方とメンテナンスについて学びました。その結果、僕は理想的な体づくりができたと思っています。しかし、すべての距離を走るのは無理があるので、どうしても電車やバスを利用しなければなりませんでした。僕はこれ以上はお小遣いを増やせないと考えたので、支出に気を遣うようになりました」
「支出ねぇ。子供がそこまで考える必要あるかねぇ」
 と、これは菅田。
「僕は月にどのくらいのお金が必要なのか計算するようになりました。筆記用具や衣服、交際費、部活。とにかくひと月でいくら出費しているのかを計算したんです。それが分かると、いくら財布に残せばいいのかわかります。また、想定外のことを考えて貯金をすることを決め、郵便局で口座を開設したのもこの頃です」
「じゃあ、あんまり好きなものを買ったり、遊んだりできなかったのかね」
「いえ、好きなものを買ったり、遊んだりするためにやっていたんです。お金を使うときは、本当に必要なものだけを選ぶようにしています。無駄な買い物をしない代わりに、自分の好きなことにお金を使うんです。それ以外では、走るときに適した服や疲れにくい靴を選んだり、参考書などを買うことが多いです。これは好きなことではありませんが、自分に投資するイメージです」
「投資? 株とかの? そんなの私はやったことないので想像できんがねぇ」
 菅田は頭を捻りながら天井を見上げる。
「それで、結局のところ中学のあいだは好きなことができて満足していたってこと?」
「はい、好きなことをすべてできたわけではありませんが。あの、僕は土曜日のために他の人よりも自由に使える時間が少なかったのは事実です。だから、時間を節約するためにスケジュールを組んでいました。そのときに気づいたのですが、自分のやりたいことをすべて行うには時間が足りないかったんです」
「ほうら、やっぱり両親は君に迷惑をかけているよ」
「確かに、そのことについて理不尽を感じたことがあります。しかし、そもそも時間は有限です。この件があろうがなかろうが根本的な考え方は変わりません。僕は時間が足りない場合にどうすればよいのかを考え、2つのことを行いました。ひとつは不要な予定を削除すること。もうひとつは必要な予定を終わらせるためにかかる時間を減らすことです。それを行ったときに、本当に自分がやりたいこと、本当に必要な知識が自然とわかりました。僕は生活の効率化を図り、自分のための時間をつくることができるようになりました。なにかを諦めることを辛いと感じるのではなく、自分にとって本当に大切なことに多く時間を使うと考えるれば、それは決して悪いものではありません」
 菅田は頭を抱えた。彼は少し前から苛立ちを感じていた。しかし、なぜ自分が気分を害しているのか分からなかった。彼にとって、自分が気分を害していることだけが問題だった。
「では、高校生になってからはどうなんだ?」
「最近はそういったことはありません。そのかわりに、他県の名産品を買ってくるように頼まれます」
「それはお使いみたいなものかね。つまり、両親は君を奴隷かなにかと思っているとか」
「いえ、それは違います。両親は今も昔も普通に接してくれます。それに、僕はこれを楽しんでいます」
「楽しんでいる?」
「はい、一週間前に要件を伝えられると、どうやって行くのか考えます。タイムスケジュールが出来上がると、それを両親へ見せます。もちろん、財布の中身は行き先によって変わりますが、足りないことはありません。僕は知らない土地へ行き、いろんな人たちと会話をして、観光地で写真を取り、お土産を買います。自宅へ帰ると、両親にどんな経験をしたのか話します。学校でも友達に話します。それは日帰りの旅行と変わりありません」
「だめだな、こりゃ。君は間違っているよ。あーああ、勘違いしちゃってるねぇ。こりゃ親御さんも呼ばなきゃだめかもしれないね。ああ、まいったまいった。佐々木くん、ちょっと休憩。タバコ行ってくるよ」
 菅田は立ち上がると部屋をあとにした。
 佐々木は菅田の態度に思うところがあり、少年に声をかけた。
「悪いね。あの人ちょっと気難しい人なんだ」
 少年は佐々木のほうへ振り返り、
「いえ、大丈夫です。でも警察署に入ったのは初めてなので少し緊張しました」
「私は記録を残す係りだから、本当は口を挟んじゃいけないんだけどさ。君のご両親は少し過激なところがあるかもしれないけど、しっかりとした教育方針があってこんなことしてるんじゃないかな」
「はい、僕もそう思います。それを理解するのに時間がかかりましたけど、今は感謝しています」
「うん、君はとても利発そうだし、ご両親の狙い通りきっと立派な人になるよ。でもさ、菅田さんはそこのところ理解できないと思うんだよね。申し訳ないね、嫌な気分になっただろう?」
 少年は微笑みながらこう言った。
「いいえ、理不尽には慣れていますから」

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